6代目庄五郎トーク
第11回だんご寄席 谷中霊園案内(第二部)
平成14年6月12日(水曜日)
日頃、新聞を開いて熟読する記事は史実に関する箇所で、特に古き良き時代を回顧し、先人の跡を偲ぶのが好きです。
従って、墓地に眠る幾多先人の生涯を辿り、目礼して墓地内を散策することがあります。
偶々、谷中霊園が間近にあるので霊園管理事務所発行の案内図を基に、これ等霊園内の名士を整理すると、我が国の数百にのぼる旧華族の一割に当る数十余の墓碑が此の谷中にあることが分ります。
墓地内でひときわ大きな墓域は徳川宗家にまつわる「徳川婦人墓地」でありましょう。
また豪華な墓では従一位勲一等の「伊達宗城」の墓、巨大な墓碑は公卿の「大原重徳」、祷(みそぎ)教の「井上正鉄」、大審院院長「玉乃世履」、東京市長「松田秀雄」であります。また特異な方では、屋根付きの門構えで、墓域をぐるりと塀を廻らした屋敷風なものは元・東京市議会議長、男爵「楠本正隆」、噂では、納骨堂内に金銀財宝の遺産をひそめるという「渋沢栄一」の墓、地下に納骨した霊安室のある元・川崎銀行頭取「川崎八右衛門」も存在する谷中霊園であります。
■霊園内の特異な墓
1. 千人塚インドの建築物風な半球形の納骨堂に千人塚の墓石が
建っている
2. 楠本正隆明治5年新潟県令のと東京府知事、屋敷風墓所
3. 間島冬道大宮県知事、明治六歌仙の一人
4. 石川千代松東大農科教授、墓らしくない珍しい形式
5. 川崎八右衛門川崎銀行頭取、霊安室が階段を降りた地下にある
■霊園内の巨大石碑
1. 大原重徳公卿、没後正二位に叙され銅牌を賜る
2. 玉乃世履大審院院長(現在の最高裁長官)
3. 井上正鉄祷(みそぎ)教教祖
4. 松田秀雄東京市長
5. 岸本辰雄明治大学創立者
6. 中村正真教育者
7. 井上達也駿河台の井上眼科創立者
№48〜№90
(48) 大原重徳(シゲトミ) 幕末攘夷派公卿
幕末の公卿「大原重尹(シゲノブ)」の五男。岩倉具視と共に新政府建設の根回しをし、王政復古を実現した人。維新の後、参与、集議院長官(当時67歳)など歴任したが、明治12年79歳で没す。正二位(左・右・内大臣を歴任)従三位(中納言)。最後の公家と云える。
(49) 重野安繹(ヤスツグ)幕末〜明治の漢学者であり歴史学者(立証主義・考証主義)。
文政10年薩摩生れ。江戸に上って昌平黌(幕府直轄の学問所)に学ぶこと7年舎長(学問所の監督)となる。明治21年帝大教授、明治23年貴族院議員、明治43年没
(50) 村田経芳(ツネヨシ) 幕末〜明治の軍人、村田銃の発案者
薩摩の人、歩兵中佐の時、渡欧して各国の小銃製造状況を視察した。明治13年13年式村田銃を発案・試作。日清戦争に使用。明治22年連発式村田銃を作る。明治38年有名な三八式村田銃を作る。日露戦争に使用。貴族院議員、陸軍少将男爵。
(51) 條野採菊(ジョウノサイギク)小説家・劇作家、天保3年江戸日本橋生れ。
国文学の素養がある。人情本から始り、翻訳小説、劇作、随筆、劇評に健筆をふるう。東京日日新聞創刊、「やまと新聞」創刊、鏑木清方は実子。
(52) 田口卯吉 経済学者・歴史学者・実業家 稀に見る幅広い独特の才能と見識を示した人 江戸下級幕臣の子として目白台に生れる。幕府が瓦解後、明治5年大蔵省翻訳局で英語と経済学を修め、横浜に移って外人について英語を学び、仕事の傍、「日本開化小史」を著す。明治11年官を辞し、渋沢栄一の助力で「東京経済雑誌」を発刊、一貫して自由放任主義を唱え、一方では労働運動に反対し、地租増税を主張した。森鴎外は彼を二本足の学者と云った。東京市会議員を経て、衆議院議員となり、明治32年法学博士。東京株式取引所、両毛鉄道、南島商会の経営にも当る。
(53) 横山大観 明治〜昭和期、日本画家として高名を馳せる 水戸生れ、旧姓酒井、養子縁組をして母方の横山家を継ぐ。明治18年東京英語学校、明治22年東京美術学校第一期生。明治29年東京美校助教授。明治37年岡倉天心に同行して渡米、明治39年茨城県五浦(イズウラ)に移転して「日本美術院」を興し、中心作家として活躍、昭和10年帝国美術院会員、昭和12年第1回文化勲章受賞。
(54) 鳩山一郎 大正〜昭和の政治家
父鳩山和夫は早大総長、衆議院議長を務めた。一郎氏は大正4年政友会から衆議院へ当選15回、昭和2年書記官長、犬養、斎藤内閣の文相、戦時中は軍部支配に抵抗、戦後「日本自由党」結成、総裁となる。昭和21年公職追放。昭和29年解除後「日本民主党」結成、翌30年自由党結成、(吉田茂と首相の座を争い、首相となり)昭和31年総裁、日ソ国交回復を実現。
(55) 伊藤圭介 植物学者
長崎のシーボルトに西欧博物学を学んだ。幕藩体制の東洋型本草学(植物学)を維新後の西洋型博物学に発展させた功労者。明治14年東大教授、明治21年日本最初の理学博士。
(56) 広津和郎(カズオ) 小説家・評論家
東京生れ、早大英文科卒。在学中より知識人の弱さを衝いた評論から出発、「神経病時代」「やもり」「松川裁判」などの著作あり。墓石(根府川)表面:志賀 直哉、裏面:谷崎精二(潤一郎の弟)
(57) 広津柳浪(リュウロウ) 小説家 56の和郎の父
文久元年長崎に生れる。東大(帝大)医学部予備門(一高の前身)中退。最初、実業家を目指し、農商務省の官吏となるが挫折、改めて政治小説を書く。明治20年「蜃中楼」で文壇の注目を浴びる。次いで「今戸心中」「雨」で絶賛を浴びた。
(58) 鷲津毅堂(キドウ) 幕末の儒学者・漢学者、永井荷風の祖父。血筋(血縁)素質を窺い、見ることができる。
尾張の漢学者、鷲津益斎の長男。江戸昌平黌に学び、維新後太政官権弁事、司法権大書記官等歴任。学士院会員
(59) 浅田宗伯 漢方医(大衆に親しまれる浅田飴の元祖)
幕末(文化12年)信濃生れ。京都に上って頼山陽に学び、帰郷して独学で医術で開業していたが、22の時江戸に出て開業。困窮生活を経て、江戸の有名医と親交を結び、幕府お抱医師から奥医師に累進、医学最高位法眼に叙せられる。特にフランス公使ロッシュの難病を治して名声を馳せた。大正天皇の侍医も務め、漢方医術の復興に尽めた。咳薬浅田飴の考案者。谷中墓地中心部に不動明王の墓石と共にあり。
(60) 田中芳男(ヨシオ) 植物学者
信濃国飯田生れ。江戸に出て蕃書調所に学ぶ。維新後、文部省博物局勤務、度々の博覧会開設開催に尽力し、博物知識の普及に貢献した。
(61) 酒井家 姫路藩主
四代将軍家綱を補佐して政治の実権を握り、江戸城大手門下馬札の前に屋敷があったので、世に下馬将軍と云われた酒井雅楽頭忠清(大老)で知られる家系。
酒井忠正 (明治26年東京生れ:福山藩主阿部正桓(マサタケ)の子より養子に入る)京都帝大卒、大正12年貴族院議員、昭和14年阿部内閣農相、伯爵、貴族院副議長、帝国農業会会長、昭和46年没
戦後、この忠正氏とその息子忠元氏の奥さん酒井美意子様は、度々当店に訪れてくださったお客様、美意子様は加賀百万石前田家の長女です。その御母堂は酒井家一門よりお輿入れになられている。従って加賀前田家と譜代大名屈指の酒井家と名門通しの屈指通し、両方の血統を受け継いでおられる純粋培養のお姫様こそ美意子様であります。作法の先生、マナーの先生として、度々テレビ、雑誌に出られる方。
(62) 伊達宗城(ムネナリ) 伊予国(愛媛県)宇和島藩主
谷中霊園中央地区に百坪程の敷地(墓域)にひときわ目を惹く大きな墓石に「勲一等功一級伊達宗城」とある。弘化元年旗本山口家から宇和島藩10万石に養子になって世襲したのが宗城である。此の人渡邊崋山と親交のある高野長英(幕吏に追われて自刃)を匿い、或は大村益次郎を招き、藩内に洋学を普及させるなど、早くから開明的・門戸開放的施策を展開した。
また老中阿部正弘、鹿児島藩主島津斉彬(ナリアキラ)土佐(高知県)藩主山内豊信(容堂)、福井藩主松平慶永(ヨシナガ)。佐賀藩主鍋島直大(ナオヒロ)等の賢侯(賢い藩主達)と交わり、条約問題では開国通商をすすめ、将軍継承では一橋慶喜擁立で動いた。維新の折、上京して参与に任ぜられ、次いで議定、外国事務総督、外国官知事を歴任、明治4年清国へ全権公使として赴く。
生涯を富国強兵、殖産興業を積極的に推進した人と云われる。
(63) 井上正鉄(マサカネ) 神道家
江戸後期の神道家にして神道祷(みそぎ)教の教祖。上野(コウズケ)国(群馬県)館林藩士井上氏の養子、父眞鉄(ナオガネ)は賀茂真淵の門人、当人正鉄は19歳より学問の修業を志して諸国を遍歴、天保11年武蔵の国梅田神明宮の神職となり禊中心の神道教説を宣布した。しかし幕府の嫌疑に遭い、三宅島に配流され、同島で没した。後年江戸下谷に門人達が井上神社を創建し、禊教を興した。その教祖が井上正鉄である。霊園中心部の大きな台地上の墓石。
同教は現在の日暮里駅ホーム上のあたりに大道場があり、いっとき大いに栄えたが、明治に入って終焉してしまったと云う。
(64) 平山省斎(セイサイ) 幕末の進歩派の人、又は不遇を託った幕臣
陸奥三春藩士の子。幕臣平山家の養子となる。安政3年徒(カチ)目付として米国ペリーの応接に当る。将軍継承問題で当初一橋慶喜公を支持したため免職となる。その後慶喜の世となり、目付、次で外国奉行歴任、ところが王政復古で慶応3年の折、官軍との抗戦を主張するも容れられず、形勢すべて利なく退任、不遇となる。明治初年神道大成教を創立す。明治23年没。
(65) 津田直道(マミチ) 明治期の法学者であり政治家
美作(ミマサカ)岡山県北部、津山藩士の子。江戸に出て佐久間象山に洋学を学ぶ。文久2年オランダに赴き、法学を学ぶ。帰国後、開成校教授、新政府に出仕し「新律綱領」を編纂す。刑部少判事・外務権大臣・元老議官・高等法院裁判官歴任。晩年は初代衆議院副議長、貴族院議員。明治36年没。
(66) 本居豊頴(トヨカイ) 江戸〜明治 国文学者
和歌山県生れ。本居宣長の曾孫(ひまご)。和歌山藩に仕官していたが、維新後、神道(大教正)を起し、のち女子高等師範学校(お茶の水女子大の前身)教授。更に大正天皇の東宮侍講(書物を講ずる役)を歴任。帝国学士院会員。大正2年没。
(67) 本居長世(ナガヨ) 大正〜昭和期作曲家
東京生れ(明治18年)。東京音楽学校卒。同校助教授、文部省邦楽調査係兼任(三味線音楽の調査及び研究を行う)。童謡を多数発表した。「めえめえ小山羊」「赤い靴」「七つの子」など。
(68) 馬場孤蝶(コチョウ) 明治〜昭和の英文学者
高知生れ。明治学院卒後、中学校教師。同級の島崎藤村等と文學界同人に加わり、詩・評論・翻訳に活躍、慶大で英文学を講じた。馬場辰猪の弟。
(69) 馬場辰猪(タツイ) 明治初期の自由民権家
嘉永3年高知生れ、慶応義塾卒。二度英国に留学、「朝野新聞」「自由新聞」などに筆をとり、自由民権思想の啓蒙に努めた。
(70) 渋沢栄一 ご存知、明治〜大正の実業家
現埼玉県大里郡豊里村の郷士の出身。当時、農業・養蚕・藍作・金融等の家業に従事、のち江戸に出て尊王攘夷運動に加わり、一橋家に仕え、慶喜が将軍となるや、陸軍奉行支配調役、慶応3年慶喜の弟徳川昭武(アキタケ)に随行してフランスに渡り、先進国の近代的産業設備や経済制度を見聞、明治元年帰国、徳川家の封地静岡藩へ一旦入り、明治政府からの紙幣拝借金50万両を基金として、「商法会所」(日本最初の株式会社)を設立した。翌年明治政府に仕官して大蔵省租税司、民部省改正係長として活躍、のち野に降りては第一国立銀行、王子製紙、大阪紡績、東京瓦斯、東京貯蓄銀行及手形交換所、商法会議所などを設立した。大正5年以後は東京商科大学(一橋大学の前身)など教育事業に尽した。
(71) 穂積陳重(ノブシゲ) 明治〜大正期の法学者
安政3年伊予宇和島生れ。維新後江戸に出て開成校に学ぶ。明治9年欧州に留学、明治14年帰国し帝大教授、明治21年日本で最初の法学博士。明治26年民法起草に参画、明治33年貴族院議員、大正5年枢密顧問官、大正14年枢密院議長。帝国学士院院長。墓は徳川宗家婦人墓地から寛永寺裏門へ真直ぐ通ずる角地百余坪、入口近くにカロート造り遺品倉庫あり。
(72) 穂積重遠(シゲトウ) 71の穂積陳重の長男、民法学者
東京帝大卒、明治43年帝大教授、昭和19年貴族院議員、昭和20年東宮侍従長、昭和24年最高裁判所判事
(73) 阪谷芳郎(サカタニヨシオ) 明治〜昭和期の財政家
岡山県出身。渋沢栄一の女婿(娘むこ)。帝大卒、大蔵省出仕。主計局長、次官、日清・日露の国家財政を運営した。明治39年蔵相、大正4年東京市長、6年貴族院議員、専修大学総長。子爵。
(74) 青山胤通(アオヤマタネミチ) 明治〜大正期の医学者
苗木(ナエキ)藩(尾張より美濃方面)藩士の江戸屋敷で生れた。帝大卒。明治16年ドイツ留学、内科学専門に学ぶ。明治20年帝大教授、明治34年帝大医科大学学長、明治天皇の診察に携わる。大正4年伝染病研究所長。
(75) 上田万年(カズトシ) 明治〜昭和期の言語学者
江戸生れ帝大卒、英国・独逸に留学、明治27年帝大教授。文部省学務局長。日本の言語学の基盤を築いた。
(76) 円地文子(エンチフミコ) 小説家・劇作家
東京生れ。上田万年の二女、日本女子大中退。昭和3年戯曲「晩春騒夜」築地小劇場上演。昭和10年戯曲集「惜春」小説「散文恋愛」を発表。その後小説に転ずる。代表作「女坂」。昭和60年文化勲章受賞。
(77) 遠藤波津子 近代美容の先駆者
明治38年東京銀座に「理容館」を開業、初代遠藤波津子。帝国ホテル、高島屋その他各所に分室(名古屋分室その他)。四代目波津子は皇太子妃雅子妃殿下の美容を担当。現グループ総数750名。
(78) 重宗芳水 明治大正期の電気機械技術者、実業家
山口県岩国出身。明治20年上京して電気機械工場に入社のかたわら、東京工手学校機械科へ通い、明治24年卒業。明治30年独立して築地に工場を設立(明電舎の創業)。三相交流発電機(明電舎モートル)等を製作、モートルの月賦販売及び賃貸で業績を伸ばす。初代社長を務む。
(79) 平野富二(トミジ) 明治期の技術者、実業家
肥前(佐賀の出身)、文久元年長崎製鉄所入社、明治2年同社所長。明治5年上京して神田に活版製造所(活字鋳造)を設立。明治9年平野造船所創立。船舶・機械・鉄橋など製造。明治17年平野汽船を設立。
(80) 平野義太郎 マルクス主義経済学者・法学者
79の平野富二の孫。東京生れ帝大卒。大正13年帝大教授。法律における階級闘争で昭和5年治安維持法違反で退官。昭和11年コム・アカデミー事件で検挙される。戦後は平和運動家。
(81) 木村正辞(マサコト) 幕末〜明治期の国学者
下総成田出身。和学講談所、水戸藩駒込文庫に出仕。維新後、各省勤務ののち帝大文科大学教授に就任。万葉集研究の著書多数。
(82) 岸田吟香 明治期のジャーナリストであり、実業家でもある
美作(ミマサカ・岡山の北方)生れ。緒方洪庵に蘭学を学ぶ。慶応元年「海外新聞」発刊。日本最初の和英辞書編集(慶応3年)。同年、江戸〜横浜間に運送商社を興す。明治4年「横浜新報」発刊。明治5年東京日日新聞入社、台湾出兵に最初の従軍記者として活躍。明治10年売薬業を始め、眼薬「精錡水」(セイキスイ)を発売、明治35年上海に東亜同文書院設立。「富国策」(明治14年)「清国地誌」(明治15年)を著す。
(83) 鏑木清方 明治〜昭和期の日本画家
東京神田生れ。明治24年これ又江戸生れの水野年方(トシカタ)に入門。大正7年無鑑査により帝展審査員となる。昭和4年帝国美術院会員。昭和29年文化勲章受賞。
(84) 鶴田 皓(アキラ) 官僚であり法学者でもある
肥前(佐賀)出身。江戸に出て昌平黌教授、刑法官兼務。欧州出張後、司法大臣。明治13年元老院議官。明治14年参事院議官を歴任。刑法・治罪法・商法を編纂
(85) 常の花 31代横綱
(86) 内藤耻叟(チソウ) 儒学者であり歴史学者でもある
幕末の水戸藩士。常陸(茨城県)生れ。弘道館で藤田東湖に学ぶ。慶応元年弘道館教授。明治14年群馬中学校校長。明治19年東京帝大教授、明治23年宮内省嘱託。皇室典範研究所勤務、歴史学を講ず
(87) 徳川慶喜
水戸の徳川斉昭の七男、一橋家に養子に入る。元治(ガンジ)元年京都で禁裏守衛総督、慶応2年長州再征で敗れ、前代14代家茂(イエモチ)が死んだので、15代将軍職についた。フランスと結び、幕政の改革を推進したが、時既に遅く、大政を奉還したが、薩長の王政復古のクーデターに巻返され(再び攻撃され)、鳥羽・伏見で敗北。海路江戸に戻り、寛永寺で謹慎、恭順の意を表した。江戸開城後、水戸に移り、次で封地(ホウチ・受領した土地)静岡に長く謹慎。明治30年再び江戸(東京)に戻り、大正2年没。公爵・谷中霊園寛永寺墓地。
徳川宗家を滅ぼした将軍として、寛永寺各代御廟所(お魂座)には入れず、ひっそりと谷中墓地に眠る慶喜公の墓は、将軍の墓とは思えない淋しいものでありました。
慶喜公の孫に当る高松宮妃殿下のご懇望により、台東区と上野観光連盟が昭和43年(明治100年)記念事業として、墓地を改修整備し、頌徳碑(顕彰碑)を建立。
(88) 朝倉文夫
大分県の渡辺家に生れたが、朝倉家の養子となる。19才で上京、東京美術学校に学ぶ。初期文展に連続入賞。代表作「墓守」「土人の顔」「大隈重信像」「後藤新平」。大正8年官展審査員、美校教授。朝倉彫塑塾(現朝倉彫塑館・谷中七丁目)で後進を指導。
昭和48年文化勲章受賞。昭和39年80歳で没。
先生没後、娘さんの朝倉摂さんが此の彫塑館を台東区に寄贈。現在は区営にて拝観出来る。
(89) 塩谷宕陰(シオノヤトウイン) 羽後(秋田)の儒学者
文化6年大館(オオダテ)の林桃蹊の子として江戸愛宕山下に生れる。16才で昌平黌に学び、のち高弟となる。その後老中水野忠邦に仕え、天保の改革に参画、幕府の儒官となったが慶応3年59歳で没。
(90) 尾形乾山(ケンザン) 江戸中期の陶工・画家
江戸中期、京都の呉服商の三男に生れた・仁和寺(ニンナジ)の山荘に陶法を学ぶ。元禄12年京の鳴滝(ナルタキ)窯を開き、乾山と名のる。兄尾形光琳と合作、詩画一体の雅陶(風雅な焼物)を制作した。寛永寺法親王第6代公寛(コウカン)親王の江戸下向に従い、享保の中頃江戸に下り、入谷(高速入谷ランプ交差点・鬼子母神寄り)に窯を築いて晩年を送った。
(91) 中村正直(マサナオ) 明治の教育者・教育啓蒙思想家
江戸生れ・幕臣の子。昌平坂学問所(昌平黌)で学び、幕府儒官(儒学を教える役人)を経て、慶応2年渡英、明治5年大蔵省出仕、のち帝大教授、元老院議官、貴族院議員。多数の啓蒙(無知を開いて知識を与える)書籍を発刊した。
(92) 牧野富太郎 植物学者
土佐に生れ、小学校中退。独学で植物分類学を勉強し、明治14年上京、帝大植物学教室で分類学を学ぶ。明治26年帝大助手のち講師。「日本植物志図篇」発刊。昭和32年文化勲章を死後受賞。
(93) 山口銀 墓石(所在・位置不明)探せど見当らない。書籍及びインターネット
八甲田遭難事件。明治35年1月24日のこと。
大隊長 山口少佐 中隊長 神成大尉
(94) 戸田忠至(タダユキ) 江戸幕府末期の陸軍奉行、のち明治政府に仕える
初め宇都宮藩主戸田忠恕(タダヒロ)に尽した。藩主の弟の子、その後藩主となる。元治(ガンジ)元年より幕府の命で陸軍奉行に任ぜられる。慶応2年功により下野(シモツケ・栃木県)高徳に一万石を賜う。維新後、明治政府の参与となり、諸官所を歴任した。
終